ココロには充電期間が必要だ。
自分が思ってる以上に、どうやらココロはすり減っていることがある。
それは分厚い雲のように
ぼくは普段「たくさんの人に元氣や勇氣を与える太陽みたいだ」って言われるし、勢いがある時のパワーはすさまじい。
反面、まるで分厚い雲に覆われたかのように、真っ暗になってしまうこともある。
理由はわからない。
突然にだ。
なんの前触れもなく。
こうなってしまうと、その闇を晴らすのにとても時間がかかる。
とにかく何もしたくなくなってしまう。人と話すのも、外に出るのも、おっくうになってしまう。
なるべくこうならないように氣をつけていたとしても、決まってその時はやってくる。
そんな自分でいることが怖い。
その瞬間に仕事をしていたら、とてもじゃないが仕事どころではなくなってしまうし、人といれる状況でもない。
自分がこんな状態で人に迷惑をかけてしまうことが一番怖いんだ。
何かしなきゃという焦り
でも、だからといって何もしないわけにもいかないジレンマと闘うことになる。
何もしなければ時間は刻一刻と過ぎていくし、なにもしなければ生きてすらいけない。
そうやって「何かしなきゃ何かしなきゃ」って、まるでだれかが耳元で囁いてるかのように、罪悪感につつまれていく。
もっとわがままなのは、うかつにこの状態の時に触れて欲しくないということ。
見られたくないんだ。こんな状態であることを。でもほんとうは助けてほしいと思ってる。
素直じゃないのはわかってる。
かたく閉ざされた鉄格子を、うまくひょいひょいすり抜けて近くまで来てくれる人を求めてる。
むしろ病名でもつけてくれないだろうか
もういっそ、この状態に病名でもつけてもらった方がどれだけ楽になれるだろうか。
「なるほど、これはこういう病氣なんだ」って割り切って対応できるし、言い訳だってできる。
でも、そういう訳にもいかない。
いたって普通に見えるし、社会の中で生きていくには、どんな状態であろうと、関係ないからだ。
だからぼくはその環境から離脱した。
とてもじゃないけど、その環境では生きていけないと思ったし、身がもたないと思ったから。
モチベーション管理だとか、無理してでも「何かをする」ということができないから。
落ち込む時はとことん落ち込むし、何もしたくない時はとことん何もしない。
それは論理や技術でどうにかなるものじゃなくて、サイクルとして必然と組み込まれてるものだから。
ココロと映画
ぼくのココロは、とても氣まぐれだ。
だれもコントロールすることはできない、ココロの氣の済むまでに自由にさせてあげたい。
それは振り子のようなもので。
とことん調子がいいと思ったら、今度はそれが嘘だったかのようにどん底みたいになる。
落ち着くと戻っていく、その繰り返し。
だいたい、何もできない時のぼくのココロの癒し担当は映画であることが多い。
話したり、何かをする余裕がない時に、映画は見ているだけでいい。
すーっと音楽とストーリーが入ってきて、感情を爆発させながら鑑賞にふける。
思いっきり泣いたり、思いっきり笑ったりすると、ココロを覆っていた分厚い雲のことをかぜさんがピューっと吹き飛ばしてくれる。
自分の凹む時を把握する
こう凹んだ時に、何も言わずにやさしく抱きしめてくれる人がいたらどうだろう。
それはもう、乾き切ったココロを、またうるわしてくれること間違いないだろう。
でも、それはエゴで、贅沢なのかもしれない。
自分が落ち込んでる時に、その人が必ずしも余裕があるとは限らない。
結局は自分が凹むタイミングを把握して、どうやってまた太陽に戻るのかを自分で知っておくしかない。
どれだけ人に恵まれていても、この「孤独」を感じる夜は必ずやってくる。
それはいくら水をあげても、うるおうことのない乾き切った砂漠と同じような感覚。
ただ、その砂漠にもしっかり終わりがあって、それをうまく乗り越えるとそのあとは元の勢いある自分に戻る。
がんばらなくてもいい
結局何が言いたいかって、ココロがすり減っている時に無理してがんばらなくてもいいということ。
そういう時は、何もせずにのんびりと時間を過ごす。
自分のココロの充電期間だと思って、うんと自分にやさしくしてあげる。
なにも無理くりムチ打って奮い立たせる必要はない。
そんなことをして、壊れてしまう方がよっぽど怖いから。
がんばらなくてもいい。
休むだけ休んだら、自然とまた進める自分が戻ってくるから。