(出典 : kabegami.com)
どうも、はやて(@hayate_cwrkh5)です。
僕はいわずとしれた「明るい人」だ。
そりゃあ、もう、いつも笑顔でニコニコしてるし、一緒にいるとうっとおしくなるぐらい暑苦しいし、「お久しぶりです!元気ですか?」って連絡が来ても「俺が元気じゃないことがあるか?笑」って返すぐらいの。
でも見てる人は見てる。つい先日、とある人にこう言われた。
「はやてさん。笑顔じゃない写真撮れるんですか」
って。少しぎくっとした。
僕はマーブルチョコだ
素の自分って?自分をさらけ出すって?
僕は時々自分のことがわからなくなる。
「本当の自分」って一体何なんだろう。「素の自分」って何なんだろう。考えれば考えるほどによくわからなくなっていく。
ブログでも自分をさらけ出す文章が書ければと思っていても、なかなかうまくいってる実感がない。それこそ、誰でも書けるような記事を書いてるんじゃないかとすら思ったりもする。
と言うより、自分のことがよくわかってないんだ。誰よりも自分が一番自分のことをわかってない。全然わからない。
「どうしたいの?」
『...わからない...』
「何がしたいの?」
『...わからない...』
そんなことの繰り返し。これまでそうやって生きてきたんだと思う。なんでもかんでもわからないBOXに入れて後回しにしてきたんだ。
そして人のことはやたらと分かる。自分のことは分からなくても。自分なんて後回しにして、他人のお手伝いをしてれば自分を知る必要がないからだ。
僕はマーブルチョコだ
「笑顔が何故かコーティングにも見えます」
続けざまにそう言われた。
言われてみて写真フォルダを見返してみた。どの写真を見ても笑っている。むしろ笑ってない写真がない。
泣いてる写真もなければ、真面目な顔をしてる写真もない。怒ってる顔もなければ、無表情の顔もない。
あるのは笑顔の写真だけ。なんでか自分でも薄気味悪く思う。
「はやてさんをお菓子に例えると、マーブルチョコです。」
とその人はいう。
『どういうことですか?笑』
と僕は聞く。
「カラフルな面がある反面、糖衣されていて中枢のチョコは見えない。見えないというか、見えない様に守っている。」
とその人は言った。言われてみて確かにハッとした。
どうせ人が見てるのは、コーティングされてる砂糖であって、チョコではない。本当の自分のこと(チョコ)を見てる人なんて、いやしない。
どこかでそんな諦めのような気持ちを心のどこかに抱いている。これが闇なのか。わかってくれる人はごく一部しかいない。そうじゃない人たちは砂糖を見て僕に対するレッテルを貼っている。
「明るい人」
そしてそのレッテルと本当の自分に悩まされる。
- 明るくなくてはいけない
- 笑っていなければいけない
- いつでも元気な人でなければいけない
それはまるでプレッシャーのようにのしかかってきて、いつしか僕の顔から表情を感情を本心を奪っていく。笑顔という砂糖だけを残して。
貼られたレッテル
そして無意識のうちに、長いこと貼られていたレッテルに対する無意識的な反応が出来上がってしまっていたんだ。
レッテル通りの自分でいるという無意識に。
それはつまり、人が思う自分像でいるということであり、自分が思う自分ではないということでもある。
僕はいい意味で、人に合わせるのが得意だ。それこそ、自分の主張なんて全く皆無にすることだってできる。
相手が求めている正解や答えを導き出すことが好きだ。なぜなら、自分の思う主張や正解を言わなくていいから。その方が楽だからだ。
時に自分の主張とか意見というものは、自分の中での物差しから測ったことだから、相手のペースを崩しかねない。要するに、その方が人を傷付けないから楽なんだ。
僕はまだ誰でもいいやつだったんだ
「相手が何を言って欲しいかを考えて、正解の対応をするのではなく、自分の考えや発想を相手に伝える。
自分のペースが乱れたり、相手を傷つけるかもしれませんが、そういう風に心って耕されていくのだと思います。
それにそうしないと、自分が自分でいる意味ないですからね。相手にばかり合わせていたら、相手と対峙している自分が誰でも良いってことになってしまいますよね。」
そう言われて思わず、こうしてブログにしている。
いい意味でも、人に合わせるのが得意だからこそ、自己主張がない。
だから自分のことがわからないんだ。コミュニケーションをとっているはずの自分が自分じゃなく相手の思うことや相手が求めていることが前提になっているから、自分の主張や想いが上の空で、どっかに飛んでいってしまっている。
今僕は誰でもいいやつなんだ。
ブログも、検索流入や求められている情報を的確に表現していく都合のいいロボットのようなものだったんだ。
そんなつまらないものだったんだ。
蓋をしてしまう癖
無性にとてつもなく寂しくなる夜。
誰かの声を聞いていたいぐらいで。本当は人肌が恋しくて。誰かに抱きしめて欲しいぐらいで。
意味もなく無償の愛を求めてたりして。そんな自分の気持ちには蓋をして我慢している。
本当は爆発したいぐらい怒りたい。大声で怒鳴り散らすぐらい怒りを発散したい。どうしようもないやるせない理不尽を垣間見るたびにそういう気持ちが募っていく。
それでもまたそれに蓋をする。
それがどんどんどんどん溜まっていくんだ。爆発寸前になるぐらいになるまで。そして爆発する。
爆発すると僕は人と関わりたくなくなる。まるで何重にも何重にも壁を自分の周りに張り巡らして。外界との接触を一切遮断する。
こうやって、人はおかしくなるんだ。
「あんなに明るい人があんなことをするなんて...」
って事件とかニュースがあるけど、いつか自分もそうなっちゃうんじゃないかってぐらい恐怖に駆られたことだってある。
そしてそれを人のせいにだってしてた。
「お前らがそのレッテルを貼ってるんだろ」って。
でも、そうはなりたくない。人のせいにするのも本心じゃない。蓋をする癖がついてしまっただけなんだ。自分ではどうしようもできない時があるんだ。
僕は砂糖をバリバリ噛み砕いてくれる人が好きだ
だからこそ砂糖がコーティングであることに気付いてくれる人。チョコを引き出すためなら、躊躇なく砂糖を噛み砕いてくれる人。つい癖でしてしまう蓋をさせないで、その蓋すら粉々にしてくれる人。
堅く閉ざした何重にも貼られた壁の向こう側から、声をかけてくれて、何重にも貼った壁をぶち壊してくれる人。
そんな存在が、僕をラクにさせてくれる。砂糖やレッテルに縛られた自分を解放してくれる。
僕は自分のことが分かって欲しかったんだ。
ものすごく素直じゃない。分かって欲しいはずなのに、砂糖でコーティングしてるし、蓋をしてる。一番めんどくさい。
でもそれが、僕なりの生き方だったのかもしれない。
分かられないぐらいなら合わせればいい。理解されないぐらいなら理解されるようにしちゃえばいい。
そうやって自分を守ってきたのかもしれない。
これからは変わらなければならない。少しずつでもいいから。
自分の心の声に耳を傾けなければならない。自分の主張や思いを形にしなければならない。
僕にとってブログとは、そのためのリハビリなのかもしれない。
力を借りてもいい
弱音を吐いてもいい
泣いたっていい
怒ったっていい
そうやって少しずつ、本来の自分を取り戻していかなくちゃって。失われた人間味を取り戻していかなくちゃって。
人をレッテルや砂糖で判断するんじゃなくて、砂糖をバリバリ噛み砕いてチョコを見てあげられるような人になるために。