最近になって、ようやく“対価を支払う”という感覚が分かってきた。
これまでの価値観
ボランティア大好き人間だった
前のこの記事でも書いたように、僕はボランティアが大好きだ。
人の役に立ててるという実感や、お金以上のものが手に入るからであって、そこにお金を貰うということは正直求めていない。
もちろん今でも、色んな人から相談の依頼が多く、何も気にすることなく喜んで請け負っている。
ただ、ここ最近どうせなら誰かの役に立てて、なおかつお金も貰えたらまた価値観が変わるんじゃないか?と考えるようになってきた
無料のものが大好きだった
これは正直、まだまだ抜けない感覚ではあるのだが、自分を始め『無料!!』という謳い文句に飛びつく人は多いのではないだろうか?
無料で始められるゲーム、無料アプリ、無料編集ソフト、無料動画閲覧サイトなどなど...無料のものは挙げればキリがない。
無論、無料のものには無料なりの理由がある。
アプリだったら、編集のレパートリーに限度があったり、ゲームもプレイ回数が時間制だったり、動画もめちゃくちゃ続きが気になるところで終わったりと、それを楽しめる限度というものが決まっている。
ぶっちゃけ言えば、自分も無償でできることの限界は限られてるなと思う。
何か依頼とか相談されたとしても、自分にとって何かしらのメリットがないものに対しての気怠さがないかと言われれば、ないとは言い切れない。
ミーティングとか約束事があったとしても、めちゃくちゃ行きたくないし、直前になって仮病使って休んじゃったとか、絶対誰しもが経験してるんじゃないかなって思う。笑
いや、笑い事じゃないんだろうけど、きっと行きたくなくなるのには理由があるはずで。
めんどくさいとか、自分にメリットがないとか、そういう感情があるはずで、それは当たり前なことだと思う。
対価を支払おうと思った転機
自然と責任が生まれる
例えば「本を読む」1つに加えても、図書館で読むとか、知人に借りるとか、無料で手に入れる方法はいくらでもある。
それよりも、しっかり自分のお金を使って購入した方が、自然と責任が生まれるのだ。
要するに、無料で手に入れた本は、自分にとって読まなくたってマイナスにはならないもので、有料で手に入れた本は、読まなくてはコスト的にはマイナスになってしまう。
とすると自然と、『読んでやる!』というやる気が湧くし、無料で手に入れるよりも自分で自分に課す責任感の重さが違う。
これまでボランティアとか、相談や依頼を受けてきたのは、間違いなく自分に余裕があったからで。
例えどんなに相手が深刻そうでも、自分に余裕がない限りは、メリットを感じられないと動けないというのは普通のことなんじゃないかと思う。
それこそ、どんな依頼を受けたとしても、依頼主のスタンスが「無料でおね!」みたいなものが当然だったとしたら、それは『正直ないでしょ』とも思う。
もちろん僕がよく、後輩の相談に乗るのは、これでもかと言わんばかりにメリットがあるからなのは明らかで。
単純にその時間コミュニケーションをとれることや、色んな人の悩みや失敗談は演じる上でのリアリティ追求に繋がる。いわば、自分の引き出しを増やすことに繋がるからだ。
まぁ、純粋に相談に乗るのが好きだから、それが仕事になって対価を支払ってもらえるようになったらとんでもなく稼げる自信しかない。
時間をお金に変えている
要するに、僕がなぜ“対価を支払おう”と思ったかと言うと、何か依頼や相談をするということは『相手の時間を頂く』というところに辿り着いたからだ。
最近初めて、『人に自分からお金を支払って依頼する』ということを実践してみた。
そして完成したのがこちら。
Facebookページのプロフィール画像を友情価格3,000円で作ってもらった。
自分で作ろうと思えば作れるのだろうが、そこはプロにお任せしたいなって思いと、そこに時間を費やすぐらいならブログ書きたいと思ったからだ。
もちろん、これからこのブログのデザイナーは、この画像を作ってくれた人にお願いしようと思ってるし、今後ヘッダー画像とか色んな部分の作成に依頼を飛ばそうと思う。
実際に対価を支払ってみて、何よりも支払っている分この完成画像に対する愛着が凄い。笑
というより、きっと自分の持ってる価値とかスキルとか影響力ってこんな感じにすぐにでもお金に変えられるんだろうなって感じた。
いうて対価ってのはお金だけじゃない
何も、金を払えと言ってる訳じゃない。
自分が依頼すること、相談することで相手に何を与えられるかだと思う。
『これ持ってるから、これ欲しい。』
みたいな。シンプルに鋼の錬金術師で言う『等価交換』ってやつがだんだん理解できるようになってきた。
それこそ、お金意外だったら人脈しかり、モチベーションしかり、楽しい思い出しかり。
『無料でおねしゃす!』ってのが常識になっていくと、超利己的になって、相手に何を与えられるかすら考えなくなる習慣が身に付く。
『対価を支払う』という価値観を当たり前に
その価値観を養えることは、以下の利点がある。
- 相手に何が与えられるか?を考える力がつく
- 自分が渡せる価値や対価は何かを探す&開発する力がつく
- 相手が何を求めているのかのニーズを読み取る力がつく
などなど。
これらが僕が今思う、この価値観を当たり前にすべきだと思う利点かな。
『できるだけ安く!』ってのも大事だとは思うけど、要するに自分が与えられる付加価値がどんだけあるかって話なんだろうな。
あとは、
『何か対価を支払いたいな。』
とか
『この人には恩返ししたいな。』
とか
『この人と何かやりたいな。』
って思われる影響力という名の人としての魅力ってのが、今後キーになってくるんじゃないかと思う。
おわりに
このブログを書く中で、よく自問自答を繰り返すのだ。
自分にしか書けない記事って何だろう?
自分だからこそ与えられるものって何だろう?
そうやって考え続けると、自然と『これなんかは対価を支払われるのにふさわしんじゃ?』ってアイディアが湧いてくる。
時間はかかるけど、少しずつ『対価を払いたい!』と思われるような人になっていこう。