ぼくにとって「誰かのために生きる」ことは、当たり前だと思ってた。
そんなぼくが「自分のために生きる」ようになるなんて、思いもしなかった。
ぼくは誰かのために生きることをやめた
これまで誰かのために・人のために生きてきた
- 人の役に立つのが好き
- 感謝されることが好き
- 困った人を助けるのが好き
- 人に優しくするのが好き
- 誰かに何かをしてあげるのが好き
ぼくはそんな人間。
とにかく「自分のために」よりも、まずは「誰かのために」が先行している人間だった。
大学時代にやっていた復興支援のボランティアも、学生のキャリア支援のボランティアも、就活の時に軸にしていたのも「誰かのために」だった。
相談とか悩みとか愚痴を聞くのも慣れたもの。
とにかく自分が何かで役に立てたり、必要とされるのであれば何でもできる人間。
悪く言えば偽善者。
よく言えば無償の愛。
ただ、最近になって氣付いたのは、これまでしてきたことの本質の部分が「感謝される・人の役に立っている・必要とされている自分でなければいけない」という隠された自分の氣持ち。
ぼくがこれまでしてきたことで、そんなことをしている自分だから素敵なんだって。逆に、何にもしていない自分だといけないって呪文のように言い聞かせてた。
もっと分かりやすく言えば、自分で自分を肯定するのではなく、人から貰った感謝や必要とされたという事実で自分を保ってたんだ。
どこかで誰かのために生きることで自分を犠牲にしてきていた
これは、ぼくが大好きな、ある夫婦の結婚式の披露宴で流されたサプライズムービーなのだけれども、新婦のおかもっちんさんの生き方にとても共感して、涙で溢れた。
もちろん犠牲にしていたつもりはさらさらない。
自分の手元にあった花束を一本ずつ、いろんな人にとにかくあげまくっていた感覚。
もっとうまく表現するのであれば、あげすぎてほぼ原型をとどめていないアンパンマンの顔なんかもしっくり来る。笑 きっと元に戻らなかったんだ。
- できるだけ優しくあろう
- できるだけ笑っていよう
- できるだけ元氣でいよう
- できるだけ応援しよう
- できるだけ役に立とう
- できるだけのことをしよう
そうやって、ちぎってはプレゼントし、ちぎってはプレゼントするけど、ジャムおじさんもバタ子さんもチーズもいないから、顔は元通りになることはない。
いつしかそれでダウンしちゃって、外に顔を出さなくなったり、急に連絡がとれなくなったり、全く余裕のない自分が出てきてしまって、それを見られるのが嫌で、また自己嫌悪して。
言ってしまえば、誰かのために何かをしたり、あげるだけの余裕がないのに、それをすることで結果的に自分を痛めつけて、自分を犠牲にする形でしか人を助けられないという呪いを、いつしかかけていた。
誰かのために生きるのを思い切ってやめてみた
多分それに氣付けたのは、大学の時にした大失恋の時。
失恋した理由を振り返ったり、失恋して手元に残ってるものを改めて確認してわかったことがあって。
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それは
「自分が幸せじゃないと、他の人も幸せにできない」
ということ。
ボランティアだって、誰かの相談や話を聴くことだって、困ってる人を助けるのだって、全部自分が満ち溢れていないとできたとしても、自分がいっぱいいっぱいになっちゃうんだなって。
それに氣付いてからは、
- 人のため
- 誰かのため
- 社会のため
っていうのを思い切ってやめた。
それを生きがいとしてきた自分にとって、これをやめるということがどれだけ怖いものだったか。
ふとした時に「何かしなくちゃ」とか「役に立たなくちゃ」とか「必要とされなくちゃ」って動いてる自分を今でも見かけることだってある。
でも、自分に余裕がない時は、絶対にしないって決めたんだ。
そして自分のために生きることに決めた
これまでで一番勇氣のいる決断だったと思う。
「誰かのために生きる」のではなく「自分のために生きる」という生き方に変えることは。
もちろんまだ自分の中に残ってはいるけど「世間の目」とか「どう見られるか」とか「どう思われるか」とか「常識」みたいなものを氣にする時だってある。
だから、そうなった時にブレないように「自分が思う自分の幸せ」ってものを定義付けた。
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そして、それに沿って、自分を信じて突き進んできたのが2016年だったとも思う。
大学を辞めて役者を目指し、ブログで自己発信をして、もっと面白いことがしたいなって横浜から自転車で横浜まで行ったり、沖縄でコテージの管理人をしたり。
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もはやネタでしかないんだけど、振り返ってみると「面白いことやってんな〜」って自分でも思えるし、何より初めて「誰かのために生きる」時間ではない「自分のために生きる」時間だったなと思えたんだ。
自分のために生きてみたら色んな氣付きがあった
もちろん自分勝手と自分の人生を楽しむっていうのは違う。常に感謝は忘れないし、誰かの意見を取り入れない訳ではない。
「自分のために生きる」って決めてから、色んな氣付きがあって。
例えば、自分が何かをしてあげたいって思った時こそ「これは相手に何かをしてあげて、感謝されて嬉しくなる自分のため」って変換するようになった。
あと、これが一番ビックリだったのだけども、ぼくが自分の好きなことや楽しいこと、やりたいことをとことんやって発信しているだけで、
- 勇氣を貰えました
- 元氣が湧いてきました
- 自分も一歩踏み出してみようと思います
- 俺も頑張るわ
って感謝されるようになったんです。
おかげで「BBQ楽しめました!」って親御さん達から感謝されたけど、これも至極何かをしたと言うよりかは、純粋に子どもたちと遊んで楽しかった自分のおこぼれみたいなもの
— はやて@シェアハウス満員㊗️御礼 (@hayate_cwrkh5) 2017年6月9日
案外「誰かのため」とか「人のため」よりも、「自分のため」に何かをやっていれば、自然とそれが役に立つんだなって思った
昨日のアルバイトでもそうだった。
だから何が言いたいかって「自分が自分の人生を楽しんでいるだけで、誰かに何かをする必要はないんだ」ってこと。
先日お会いした、流し屋 市子路さんとお話した時も、こんなことを伝えてもらった。
自分が何かを助けていくとか、そういう次元ではない。生き方で他の人は影響を受ける。
みんなが一つずつランプを持っているとして、そのオイルは分けちゃだめ。あなたはあなたのオイルで思い切り輝くこと。
その光が超眩しすぎて、他の人たちの足元を気がついたら照らせてるけど、照らせてるんだ〜ぐらい。
誰かに何かをしてあげるのは、結果論。おすそわけだったり、あふれてあふれてギフトになるんだよ
このランプの表現がとてもしっくり来て。
「そっか、自分は自分のオイルでとにかく光り輝くだけでいいのか」って。
今この瞬間に、誰かに何かをしてあげようとか、人のため・社会のために何かを成し遂げようとするんじゃなくて、とにかくまずは自分のために生きることが最優先なんだなって。
自分が喜ぶ人生を自分で用意する
だから最近「何してるの?」って聞かれると、特別何かをしている訳でも、何かを目指している訳でもない状態だから回答に困っちゃう自分がいて。笑
ただ、これだけは言えるのが「1日1日を自分が満足するように生きる」ってこと。
まずは自分が喜ぶことや、嬉しいこと、楽しいこと、やりたいこと、好きな時間をたくさん作るようにしてる。
それが巡り巡って、誰かの足元を照らせるぐらいに眩しくなるようにとことんとやり切ろうって。
そう腹をくくったら、自然とすぅーっと自分の目の前に見えなくなっていた道が見えたように、いろんな機会やチャンスが降ってくるようになって。
その一瞬一瞬で、それを掴んでは自分のものにして、地道に泥臭く、もがきながら毎日を生きてるって感じ。
結論、何してるの?に対する問いは、自分がコップいっぱいになるぐらいの幸せで溢れるように生きてる。
大したことはしてない。
もちろん、世間の風当たりみたいなものは強いけど、それにも負けないようにしぶとく生きてる。
この先もどうなるか分からない不安に押しつぶされそうにもなるけど、不思議とそれよりもどんな人生になるんだろうなぁって希望で満ち溢れてる。
だって、自分で選べるし、自分で望むように生きることができるから。
あとがき
きっとぼくと同じように、誰かのために生きる人が、自分のために生きるキッカケになるように祈りを込めて。
大丈夫。
自分のために生きることが、知らず知らずの内に、誰かの足元を照らすことになるんだよってもっと大きな声で言えるように、ぼくは必死に生きていきます(*^^*)
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