(出典 : NAVER まとめ)
知覧特攻博物館にある四式戦闘機「疾風」に会いにいってきました。
四式戦闘機【疾風】と特攻隊の手紙から死生観と宝ものを授かって
この日はチャリ旅18日目
このチャリ旅の道中に寄った。
鹿児島の知覧観光の中でもここを選んだのは、何より自分と同じ名前である【疾風】という戦闘機があるというのだから、これは見にいかない訳にはいかないなと。
この日はあいにくの雨だったため、鹿児島中央駅にチャリは置いて、バスでの移動。知覧まで、鹿児島中央駅から約1時間15分/940円。
山道を登っていくのだが、濃霧とどしゃぶりの雨で、チャリで来なくてよかったなと。
ただ、平和会館に近づくに連れ、霧も晴れ、雨も止んでいき、着く頃には、雲の隙間から青空が顔を出していた。
まるで、僕を待ってたかのように。
知覧特攻平和会館について
知覧特攻平和会館とは
(出典 : 知覧特攻平和会館)
この知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料を展示しています。
私たちは、特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。
特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。
この地が出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設した次第であります。
引用 : 知覧特攻平和会館
所要時間
これは個人差があると思うが、僕の場合昼食も含めて、約2時間ほどで回った。
少し足りなかったなと思ったぐらい。
入場料
- 個人 / 大人 500円 小人 300円
- 団体 / 大人 400円 小人 240円
団体は30名以上からのご利用で、小人は小・中学生まで。
アクセス
このページを参考に。
他にも「語り部」「音声ガイド案内」「資料解説システム」「隊員情報システム」などがあります。
「俺は君のためにこそ死ににいく」のモデルとなった一式戦闘機【隼】
まず僕を迎え入れてくれたのは、”特攻の母”として知られる鳥濱トメさんの視点から、若き特攻隊員の無残にも美しい青春を描いた、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で実際に使用された【隼】。
この時点で胸の中にこみ上げる何かがあった。
少なくともほんの70年前は、この飛行機が飛び交うような戦争が起こってた時代がほんとうにあったんだなと。
たったの70年
最近といえば最近のこと。僕が生まれるたったの50年前のこと。
なかなか信じられないし、実感が湧かないのも当然だけど、ほんとうにあったことなんだ、と。
いざ平和会館の中へ
とりあえずゆっくり回るために、背負っていた10kgのリュックを100円バック式のロッカーに預けて、知覧特攻平和会館に関する紹介ムービーを15分ほど見て。
この日は平日・木曜日だったのにも関わらず、社会科見学の小学生やおじいちゃん・おばあちゃんがたくさんいて。でも、同い年ぐらいの人は見かけなかった。
僕の目に一番初めに飛び込んできたのは、海軍零式艦上戦闘機、通称「零戦」。
(出典 : スポッターズ的ひこうき写真館)
映画「風立ちぬ」や「永遠の0」のモデルとなった戦闘機。
沈没していたのを引き上げられ、船体後尾はなく、船体自体は大きく朽ち果てている。
これに乗った人たちがいて、この飛行機と爆弾と共に、艦隊に突っ込んでいった。
考えられない。
そこまでしなくちゃならなかったのか。当時のたった70年前の日本は。
今となっては、そんなことがあってはならないことだし、そんな簡単に命を投げ出していいもんじゃないはず。
それでも、きっとこの時代よりも遥かに自ら命を絶つ人が多いこともまた確かで。
「命を絶つ」という観点では一緒だけど、今のそれはもっともったいないし、もっと大切にしなくちゃならないはずの命で。
戦いの勝利のために向かって投げ出した尊い命の上に、今の命があることをもっと知ってほしい。
日本陸軍戦闘機の中で最強と言われた、キ84四式戦闘機【疾風】を見て
(出典 : NAVER まとめ)
零戦がよく知られている一方で、なかなか知られていない四式戦闘機【疾風】。
この疾風は、米軍燃料で、最高時速690キロ、最大高度13000m程度だったらしく、2000馬力程度のエンジンでは極めて高い性能だったという。
米軍に日本最強の戦闘機と呼ばれていたとも言われている。
知る人のみぞ知る戦闘機。
同じ【疾風】という名前を名付けてもらったからこそ、自分もこの戦闘機のようの恥じない立派な人生にしなくちゃなと。
- 知名度
- 性能
- 実績
もちろんそういうのも重要だけど、何より【小林疾風】として生きた証をこの世に、後世に残していきたいなって。
特攻隊員の遺書・手紙を読んで
さらに歩みを進めると、そこにはたくさんの特攻隊員の名前・年齢とともに、壁一面に貼られた隊員の遺影がちりばめられていて。
(出典 : Dokka!おでかけ探検隊)
よく見れば、どの隊員も、僕より若い10代後半か、20歳前後で。
きっとこの先たくさんの希望や未来があったはずの若き命が、この特攻によって失われていって。
その事実が、会館内に流れる独特の空氣感と共に押し寄せてくる。
遺影の手前のショーケースには、びっしりと遺書や手紙が展示されていて。
(出典 : おじゃったもんせ)
- 「母上様お元気ですか」
- 「いたずらに過去の小義にかかわるなかれ。あなたは過去に生きるのではない。」
- 「人の世は別れるものと知りながら、別れはなどてかくも悲しき」
- 「自分達の分まで長生きして下さい」
三角兵舎にて、特攻隊が特攻前夜にしたためた、両親や兄弟、恋人や家内に対して書いた、たくさんの死の直前のメッセージがそこにはあって。
もし仮に自分が明日死ぬと分かった前夜、こんな風に手紙を書けるだろうか
もし仮に自分が明日死ぬと分かった前夜、落ち着いて寝られるだろうか
もし仮に自分が明日死ぬと分かった前夜、逃げ出さずに立ち向かうことができるだろうか
正直に言ってしまえば、無理だ。
まだ死ねない。
まだまだやりたいこともたくさんあるし、この先の日本がどうなっていくかも見てみたいし、何より自分の子孫だって残していきたい。
でも、昨今の「死」は当たり前のものではなく、実感のないものとして存在している。
氣が付いたらやってくるもののように。
だが、紛れもなく、生きとしいける全ての生命に「死」は密接に関与している。切っても切り離せない逃れられない、絶対のものとして。
(出典 : みんカラ)
氣が付けば、胸に込み上げてきたものが目から溢れ出していた。
とめどなく。
止まることなく。
目の前が見えなくなるぐらい。
その後は涙で全部を読み切ることはできなかった。
たいていの当たり前は当たり前じゃない
良くも悪くも、この今の時代を生きている自分は、平和という幸せな環境の土台の上で生きているんだなって。
- 辛いこと
- 悲しいこと
- 苦しいこと
日々、目の前に訪れるそんな事柄たちに対して、『どん底だ...』『もうやってられない...』ってなる時があるとして。
それはあくまで、平和で幸せな環境の土台の上での錯覚でしかないんだなって。
「明日、飛行機と共に爆弾を抱えて、18歳という若さで命を投げ出す」ことに比べれば、きっと大抵の辛いこと、悲しいこと、苦しいことはたいしたことないんだ。
別れすら直接、家族や恋人や家内や子どもに言えない状況じゃないし、何より今、生きていられている。死ぬわけじゃない。
そう思ったら、
『生きてるって宝ものだ』
って思えたんだ。
でも、それが当たり前じゃない。たくさんの犠牲とたくさんの命とたくさんの努力があって今がある。
食べるものだって他の動植物の命を頂いてる。
住むところがあるのだって普通じゃない。
五感が冴え渡っていることだってそうだ。
何なら今生きてることだって、ありがたいこと。
当たり前のことなんて何一つなくて、全てにおいて、ありがたいことばっかりなんだって。
ほんの些細なことだけど、これを知っているかいないかで、大きく考え方も捉え方も、全てに対する感謝の仕方も全部変わってくる。
生きてる者として、死を学んで身近に感じることは、きっと余裕にも繋がってくるから。
おわりに
だからこそ、今を生きていられることに感謝をして、この命を・人生を楽しんだり、後世に何かを残すことがきっと先人たちに対する恩返しなんだろうな。
もちろん忘れないで伝えていくこともしかり。
それは、それを使命だと思う人に任せる。
僕は僕の生きた証を残すべく、これからも今ある命にありがたく感謝しながら生きていく。
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