Dear 友達のポケモンを羨ましがって見ていたあの日の僕へ
どうも、駆け出し俳優の疾風(@hayate_cwrkh5)です。
先日、素敵な文章を見つけた。
あの頃の未来が今だってこと、ゲームの中に繰り広げられていた体験が現実になったこと、すごくない?すごいよ。都会のど真ん中で泣きそうになった。駅前で、公園で、飲み屋で、みんなポケモンの話してる。隣に立ってる人の画面をそっと見て、ほんとにそこらじゅう、みんなやってるなあ、ってため息をつく。
ゲームとしてはすぐに飽きるよ、とかそんなのはどうでもよくて、とにかく、こうやって地続きでポケモンを捕まえられる世界が実現したことそれ自体が幸運で幸福で楽しくて未来だってドキドキする。ハッピーだ。
僕も全く同じ気持ちだった。そして今度は未来のポケモンに希望を抱いている。
きっといつの日か、本当にこの手でポケモンに向かってモンスターボールを投げられる日が来るのだろうと思うと、心が踊る。自分のお気に入りのポケモンが横にいて、バトルを繰り広げるのかと思うと、ワクワクドキドキが鳴り止まない。
今日も小学3年生の弟を電動自転車の後ろに乗せて、家から一番近い埠頭沿いの海まで行ってきた。
そこには、都会とか近所にはなかなかいないコイルだとか、ビリリダマとか、シェルダーとか、まだ図鑑に乗ってないポケモンなんかがたくさんいて。
「にいにい!あっちにポケストップがあるよ!」
『よーし!わかった!じゃあそっちまで行こう!』
なんて会話をしながら、自転車をかっとばせていた。
弟は毎日ゲームばっかりで、母さんには『毎日毎日ゲームばっかりして!!そんなん何の役にも立たないよ!!』とか『そんなんいいからさっさと宿題やりなさい!!』とか『いい加減にしないとゲーム没収するからね!!』とか。
あの日の僕は、ゲームが大好きなばっかりに毎日怒られていた。
ただ、「面白い!楽しい!」と思ってることをしているだけなのに?
あの日のポケモンってのは、学校に行った時にする友達との共通の話題だった。きっとそれは今でも変わらなくて、少しでも多くの人と繋がりたくてポケモンをやる人だっている。
思った以上に「ポケモン」は、僕らにとっての共通点になりうるから。
とはいえ今では、お父さんもお母さんも自分の携帯にポケモンGOをダウンロードして、なかなか休日に出かけなかった家族でのお出かけ行事の一つにもなった。笑
父さん、母さん。ゲームの世界へようこそ。笑
他にも、
- 地域の活性化
- 運動不足の解消
- うつ病改善
- 新たなビジネスチャンス
- 保護施設の犬が全部引き取られた
なんて良い影響もある。
もちろん、良い影響ばっかりじゃないことは当たり前で、
- 歩きスマホ
- スマホ依存
- 課金中毒
- 入っちゃいけないところに入る
- 運転しながらやっちゃう
なんてことも取り上げられている。
中には、
こんな風に、やくみつるさんなんかは、ポケモンGO利用者を「心の底から侮辱する」とまで言っている。
でも、今となって凄い思うのは、やるもやらないも自由だし、どうして批判とか侮辱の声が生まれてしまうんだろうという悲しい叫び。もちろん、批判するのも、悪影響があるからやめた方がいい!みたいな声があがるのも自由。
でも、ポケモンGOを開発した人は、最初から「事故を起こすために作ろう!」とか「スマホ依存を作るために作ろう!」だなんて想いで作ってないはず。
むしろ、「ポケモンが現実世界に現れたら面白いんじゃないか?」とか「あの頃の懐かしさがきっとこみ上げるはず!」とか、そういう思い出とかポケモン好きな人たちへのプレゼントなはず。
作者の夢が形になって、それを心待ちにしてた人たちにも夢が届いてる。
本当はとっても素晴らしいことのはずなのに、どうしてこんなにも悲しい気持ちもあるのだろう。作者だって、ポケモンだって何も悪気はないのに。
でもきっと誰かが悪いとか、何がダメだとかそういう話なんじゃなくて、この夢を活かすも殺すも、僕らの手に懸かってるような氣がして。
今僕の前に届いたこの夢を、どう捉えるか、どう扱うかが大切で。
批判や侮辱は簡単だ。欠点とか穴ぼこをただひたすら見つければいい。
だったら僕は、この夢を、あの日の懐かしき思い出を、どうすればうまく現実世界に活用できるか、純粋に楽しめるかに注力しよう。
それが、作者が夢を届けてくれたことに対する恩返しだと思うから。
ポケモンはいつだって、僕たちに懐かしき子どもの日のことを思い出させてくれる素敵な夢だと思うから。
From ポケモンが現実世界で共に冒険出来る日が近づいていることを楽しみにしている疾風より。