「もしも今この瞬間に、だれかが死ぬとしたら」
何の前触れもなく
何の予兆もなく
何の疾病もなく
何の事故もなく
誰だっていい。
妹や弟でも
友人でも
先輩・後輩でも
彼女・彼氏でも
自分でも
「死」について向き合った時に、果たして何を思うのか。
【死生観とは】たとえあなたが死のうとしても僕は止めない
「死」はコントロールできるものじゃない
生ぬるい考えごとじゃない。
いたって真面目だ。
いつかはどうせ死ぬ。
どう足掻こうが、どう抵抗しようが、死ぬことからは逃げることはできない。
それがいつかなんてものも分からないし、死に方だって確実に選べるものじゃない。
- 何年か先かもしれない
- 3ヶ月後かもしれない
- 明日かもしれない
- この記事を見ている途中に死ぬかもしれない
それはコントロールできるものじゃないし、事前に知らされるものでもない。
自分が3分先に生きているとは限らないし、周りのだれかが必ず生きているという保証すら存在しない。
「生きている」ということは、言い換えれば奇跡のようなことで、全くもって「当たり前」じゃない。
ほんとうは8人兄妹だった
自分が5人兄妹の長男で、なかなかそこまで子どもを生んでいる親は少ない。
でも、両親は、3人子どもを亡くしてる。
小さい頃だったからよく覚えていないし、正直言って全くもってそんな実感すら感じることができない。
「もし自分の子どもが3人死んだら」
それがいかに苦しく、いかにすさまじい痛みなのかを経験することはできないが、大人になった今となってはよく分かる、
よくそれで「生きる」ことを放棄せずに、ここまで育てられたなって、両親の強さにはいつも頭が上がらないし、真似できない。
今となっては全くもってこの話はしないし、するとしても毎夏にやっている「迎え火」と「送り火」ぐらいだ。
確かに今は5人兄妹かもしれないけど、きっと両親の中で生き続けているだろうし、何なら自分の中でも生き続けている。
自分の生きる時間に、妹たち3人分も加えて生きていこうと決めたのはいつのことだっただろうか。
正確には思い出せないけど、それは今でも忘れてない。
今この瞬間に両親が死んだら何を思うのか
葬式とか、金銭面のこととか、どう生きていくのとかは一旦全部置いといて。
- 涙は出るのか
- 悔いは残るのか
- 言い残したことはないか
と、自分に問うてみたけど、そこにあったのは「諦め」だった。
そりゃ悲しいだろう。
実の生みの親が死ぬんだから、泣かない訳ないだろうし、悲しくない訳もない。
悔いだって少なからずあるだろう。
もっと親孝行しとけばよかったとか、あんなに毛嫌いしないでもっと話しとけばよかったとか。
本当は照れ臭いけど、感謝してるって面と向かって伝えとけばよかったんじゃないかって。
きっと色々思うこと・感じることはあるだろうけど、死んでしまったら意味がない。
それでも、『そうなったら仕方がない』と思ってしまっている自分がいることに氣付いた。
死んだら死んだだ。
死んだことを悔やんでも仕方ないし、嘆いていたってどうにもならない。
時間は残酷なまでに待ってくれないし、刻一刻と時を刻んでいく。
だからこそきっと、たとえ今この瞬間に両親が死んだとしても、葬式を済ませ、立ち止まることなく自分の人生を一歩ずつ前へと歩みを進めていくんだろう。
だれかが生きることができなかった「今日」の分まで、「明日」を生きるために。
たとえあなたが死のうとしていたとしても
きっと止めない。
死にたいのなら死ねばいい。
それで満足するのであれば。
たとえどんなに人がそれを止めようとも、それはおかしいと異議をつけられても、結局のところ決めるのは「その人」だ。
止める権利も、その人の人生をコントロールする権利も自分には存在しない。
「なんで止めなかったんだよ」
と責められたとしても『望んでいたから』と即答するような、心の奥底に凍てつくような冷たさを持ち合わせていることに氣がついてしまったんだ。
考えてみればすぐ分かる。
結局は、幸せの尺度なんてものは自分の中にあるものさしでしか測れない。
自分にとっては、「死なないで生きることが幸せ」だと思ってたとしても、その人が「今すぐ死ぬことが幸せ」だというのなら、どうして止めることができようか。
できない。
結局は、人の人生を変えることも、コントロールすることもできない。
だって、決めるのはその人だから。
いつも決まって相談事に乗る時も、
『それでいいんじゃない?』
って言うことに対して、「無責任だ!」って言われることもあるけど、そりゃ無責任になるさ。
俺の人生じゃないんだから。
根底に込めてる想いは「それで死ぬ時後悔しないんだったらいいんじゃないの?」という前提。
だから僕はいつも「こうしろ・ああしろ」だなんて一切言わない。
話を聴くだけ。
聴いてたら勝手にその内に、答えは出るもんだし、出すもんだし、決めるもんだ。
だから死のうとしてる人がいたとしても止めない。
自分で決めるしかないんだから。
決めてもらおうとするな。
どうせ死ぬんだから
よくよく考えてみれば、どうせ死ぬんだ。
- 好きなように生きればいい
- やりたいことをすればいい
- 言いたいことは言えばいい
- たくさん挑戦すればいい
- たくさん失敗すればいい
- たくさん失恋すればいい
結局は死ぬんだから、生きてる限りは全部楽しんじゃえばいい。
マイナスだけでもつまらないし、プラスだけでもつまらない。
人生は山あり谷ありだからこそ楽しいのであって、どちらか片方が欠けた人生なんてきっと相当味氣ない。
来るべき時に壁は来るし、乗り越えた先に宝箱があったりする。
その冒険がいつ終わるかがわからないだけで、それは突然だったり、相当長かったりと人それぞれだ。
自分にとっては「どうせ死ぬんだったら」は魔法の言葉でもある。
- 『どうせ死ぬんだったら盛大に失敗してみっか』
- 『どうせ死ぬんだったらこっぱずかしい想いしてでもいいから、さらけ出してみっか』
- 『どうせ死ぬんだったら挑戦しまくってみっか』
- 『どうせ死ぬんだったら、死んでもよかったわって思えるような人生にしてみっか』
大抵の悩みごとなんて、これさえあればすぐに解決する。
死ぬことに比べたら、大したことないことばっかりだから。笑
おわりに
このブログに「死生観」というワードでの検索流入が多く、もっと参考にしてもらえるように「自分なりの死生観」をさらけ出してみた。
そう考えてみると、「死」は至極間近で、「生」をより濃くするためのスパイスだ。
「どうせ死ぬんだったら」の「諦め」さえあれば、なかなか踏み出せない一歩も踏み出せるのかもしれない。