どうも、はやて(@hayate_cwrkh5)です。
「自分を信じることができない」って人たくさんいますよね。
その氣持ち、ぼくもすごい分かります。ぼくはブレッブレの人間なので。笑
そんなぼくがブレッブレであるとは言え、どうやって自分を信じているのか?
その過程や思考法、物事の捉え方や最終的な決断の部分を今日は晒してみようと思う。
自分を信じることができない僕が自分を信じるために大切にしていること
ぼくは、比較的情報収集が好きで、今後時代にそって何がどう変わっていくのかとか
どんな著名人がどんな動きをして、何をして何を狙っているのかを調べる・見るのが好きだ。
そして、色んな人の色んな考え方や、生き方、伝えようとしていることなんかも好きだ。
基本的に「いや、絶対それは違うだろ」とは思わなくて、少し卑怯なのかもしれないけど
「全部、正解だ。何一つ間違ってることはない」って思って受け取るようにしてる。
ただ、それが故に、受け取る量が多すぎてパンクする。
「で、結局何が正解なんだ?」って自分のキャパを超えて、もやもやし始める時期がある。
色んな人が色んな正義を振りかざしている
「これはこうだ!」
「それはこうすべきだ!」
「いやいや、こっちの方が...」
そんな断定的な決めゼリフや、ほんとにそうなの?と思うことがたくさん溢れている。
ブログを続けていくにあたっても、とにかくたくさんの情報を集めていくと
必ず「結局どれが正解やねん!!!」って自分にキレそうになる時がある。笑
価値観の押し付けとまではいかなくても「俺はこう思う」「私はこう思う」を聞くと
「なるほど確かに。」って、いい意味で振り回されそうになる自分がいることに氣付く。
それもそのはず。
人によって大事にしていることも違えば、価値観や思想だって違う。
時にそれは誰かにとっての刃になるかもしれないし、救世主になるかもしれない。
炎上を起こす人には炎上する要素や原因がその人にあるとすら思っている。
ただ、それは至極当然のことで、結局自分が思っていることや伝えたいことを
自分の言葉としてメッセージするからこそ、威力があるし、説得力も影響力も出てくる。
全部真に受けていると身が持たない
でも、それを全部真に受けていると身が持たない。
だれしもが「お前は間違ってる」ってよりも「あなたは正しい」って言ってもらいたいはずだし
少なからず後者の味方を信じて、発信を続けているから、正しいと思い込んでいるから。
よくよく考えてみると、結局自分のもとから放たれていったメッセージたちは
自分の意図したものとは違って、受け手に受け取られることがしばしばある。
それはコントロールできないもので、受け手にはその受け手の正義があるからだ。
ただ、ぼくの場合その受け取る窓口のキャパがあまりに広すぎる欠点がある。
いい意味でブレッブレになるし、いつの間にか自分の考え方や価値観とかが
「影響を受けている人の何か」になってたりして、自分じゃなくなってることがある。
こうなってくると、自分が自分じゃなくなってくるし、オリジナルとは何だ?ってなってくる。
誰だって何かを信じていたい
発信者には悪氣がないけど、時にその影響力の強さを自覚しなければと思う時がある。
「自分のしていることは正しい」と信じていたいし、そうじゃなきゃ強くメッセージできない。
必ずと言っていいほど、ブロガーという名のメッセンジャーは自分が届ける文章や
メッセージを信じてくれる・応援してくれる人を同じように信じていたいはず。
同じように「強く自分を信じること」も必要になってくる。
色んなブロガーが色んなメッセージをしている中での、自分という括り。
時折、何を伝えたいのか、だれに届けたいのかを明確にしない限りは
皆目見当もつかない、よく分からない文章になるだろうし、誰にも届かなくなるから。
結局は自分で自分を信じなければならない
乱暴な言い方をすれば、誰も信じてくれない時だってあれば、応援だってされないこともある。
そんな時にだれが一番自分を信じてやれるかって、自分自身しかいない。
変えることのできない紛れもない事実。自分を信じられるのは自分だけ。
もちろん他信を私信に変えることだってあるけど、混じりっ氣のない
純粋な自分の想いなんてものを一番理解できるのも、他の誰でもない自分。
「これでいいんだろうか?」
そう自問自答して、自分で一番自分を納得させながら進んでいくしかない。
あくまで情報や他の人が言うことも正しくて、参考にするというのは前提として。
時折振り返ったり、立ち止まって考える時も必要
「それ自分の大事にしてるものと、どう掛け算できるだろう」
「自分の想いとは違うけど、そういう考え方もあるんだと受け取ろう」
「確かにそれは正しい。自分なりの言葉で嚙み砕くとしたらどうなるんだろう」
そうやって、たくさん拾ってきたどんぐりやら、貝殻やらを並べては
自分の中でふるいにかけて、改めて整理する時間が必要なんだって最近氣付いた。
誰も間違ったことは言ってない。
だれもが正しいことを言っている。
ただ、自分の正しさとは違うだけ。
責めるほどでもないし、それはそれだって割り切って受け止めてしまう器でありたい。
たまに、SNSやブログ更新が止まる時は、多々あるメッセージを整理する時間。
多分、ぼくが1年間ブログを続けてこれたのは、いい意味で「自分の中では」を考えるための
時間をしっかり用意しては、その都度アウトプットをしてまとめてきたからだと思う。
自分にとっての影響力が強い人を把握しておく
特に、ブロガーよりも一番影響力が大きいのは、身近な家族だったり、恋人だったり
仲の良い友達だったり、尊敬する人だったりする訳で。
もちろん、一番信じていたい言葉や応援なのだが、時にはそこにもムチ打ってでも
「自分はどうなんだ」って問い続ける必要がある。これがなかなか難しい。
やはり信じている人や、自分にとって影響力が大きい人のそれはその人が思ってる以上に強い。
軽々と「自分は」を通り越して「この人が言うんだから間違いない」って信じたくなる。
ここにも落とし穴があって、それを信じて失敗したり痛い目を見た時に
その人のせいにしがちなんだけど、それを信じているということは自分の責任だということ。
「この人が言うんだから間違いない」は「それを自分で信じていいのか?」と再確認する必要がある。
たった23年しか生きてないからこそ、自分よりも長く生きている人や、実績がある人たちの
言葉は時に刺さり、そのまま自分のものにしたくなるのだけれど、しっかりと自分のものとして
噛み砕いて、選択して「自分で選んだんだ」という自分に対する責任を生まなければならない。
そういう時にこそ「友達だから」「家族だから」「尊敬する人だから」という
自分の中での先入観・フィルターを取り外して、裸になって決める必要がある。
時に勇氣を持って、そういう身近な人たちにも「ぼくは・私はそう思わない」って
強氣で立ち向かっていくことも必要なんだなって最近学んだし、その大切さを痛感してる。
自分を見失わないために
何よりも自分にとっての正解や信じるものは、自分で用意すること。これに尽きる。
どこかを探しても見つからないし、だれかが教えてくれたり、決めてくれるものでもない。
唯一無二の「自分」を作るために、いい意味で他の人がいたり、他の考え方がある。
そのまま自分のものにするんじゃなくて「自分は?」と問い続ける旅なんだろうな、きっと。
なんだかんだ、一番会話しなくちゃいけないのは、自分なのかもしれない。